くれぐれもよろしく


 

 

 こたつの上には、お茶受けに溢れんばかりに盛ったみかんがどでんと置いてある。
 正也はこれを見るとやっと冬が来たという感じがして好きだった。
 家では皆面倒がってこたつなんて出さないものだから、この感覚はおばあちゃんの家に来た時にしか味わえず、格別だなあと、溶けてしまいそうなまどろみの中でぼんやり思った。
 正也から見て右側にいて、同じくこたつに入ったきり溶けそうになっていた佳奈は、眠気に抗おうとしてみかんを手に取り、くるくる回しながら両手で弄んでいた。
 何かをしていないと、零時までなんてとてもじゃないが持ちそうにないからか。
 今日は大晦日。いつもなら早く寝なさいと小言の一つも飛び交うところだが、年越しとなれば親も甘い顔の一つや二つは見せてくれる。
 しかしながら、普段からなんだかんだで親の言う通り十時頃に寝ているものだから、十時を振り切って一八〇度針が回った今、正也も佳奈もすごく眠い。
 もう寝ると言っていつも通りの七時には床についた祖母が少し羨ましい。
 時間が経つにつれこたつの魔力は睡魔に加担していくばかりだし、聴きなれない紅白の演歌が子守唄のように聞こえてくる。
 そこで正也より一つ歳が上の佳奈は機転を利かして、トランプでもしようと言い出した。
 こたつから出たくないのか、這いつくばって腕をめいっぱい伸ばし、少し離れた場所にある自分のバッグを取り寄せてから、母親に買ってもらったばかりなのだと数時間前に自慢げに披露していた真新しい、キノコを擬人化したキャラクターをあしらっているトランプを取り出す。
 パステルピンクが弾けんばかりに絵や文字に用いられていて、眩しい。

「マサちゃんだけじゃなぁ、おじさんもやろうよ」

 紅白をなんとはなしに見続けていた、正也の父にも声をかける。
 父はあまり気乗りしていないのが子どもにも伝わるくらいに堂々と、顔に面倒と書いてあったが、「いいよ、やろうか」と気だるげに言って、足だけこたつに突っ込んで寝転がっていた体を起きあげ、こたつの台に向き直った。
 正也はというと、最初から頭数に入れられることは小さい頃からの付き合いである従姉の性格上よく知るところだったので、特に異論を言うことなく従った。
 ここで逆らうともっと面倒になることは簡単に想像できた。
 たぶんお父さんも同じ気持ちでしぶしぶ合わせてくれたに違いないんだろうなと思った。

「じゃあ罰ゲーム決めよー」

 シャッターが閉じかかっていたのが嘘のように佳奈の瞳は全開となりキラキラと輝いている。
 やれやれまた始まったという顔で見合わせる親子。

「もう今年も終わるし、なんか後悔したこととか恥ずかしかったこととかの告白でいいですかー」
「いいでーす」正也はいい加減に返し、そのまま後は野となれ山となれとでも言いたげに続けた。
「何やるの? ババ抜き? ブラックジャック? 大富豪? なんでもいいけどさ、どうする?」
「うーん、最初はババ抜きでいいんじゃない?」
「何でもいいから、さっさとやっちゃおう、えーと母さんまだお酒ある?」明日のお節に備えて下準備に余念がなく、台所からめっきり出てこない母に大きな声で呼びかける父。
「はいはい」と言って、今に入ってきたかと思えばお歳暮でもらった日本酒の一升瓶を置いてすぐさま戻っていく。
 
 母が横を通り抜けた時、サツマイモの甘い香りを正也は感じ取り、栗金団を作っていることに思い当たった。
 甘党の正也は、明日食べられると考えただけでいい気分になってしまう。父は細工の凝ったグラスにお酒をなみなみと注ぎ、表面張力ギリギリ一歩手前で止める。
 上手くいったと満足そうな顔ったらない。おぼつかない手つきでカードを切っていた佳奈はそれをジト目で見つめつつ人数分配ってみせた。
 じゃんけんをして父、佳奈、正也の順で時計回りとなった。佳奈が父のを引いて、佳奈は正也に引かれて、という具合。
 しかし三人という小人数のせいか、盛り上がる間もないまま、いともあっけなく終わってしまった。負けたのは父だった。

 

「……後悔したこと、ねえ。四十年近く生きてきて、そりゃあ山のようにあるさ。忘れてしまうくらいにいっぱいね」
「じゃあ一番、一番後悔してることー」

 真っ先に早抜けしてみせた佳奈は実に上機嫌で囃し立てる。
 後悔したことなんて聞いてどうするんだろう、つまんないじゃないかと思いながら、正也は冷ややかにそのやり取りを眺めているだけだった。

「ああ、ああ分かったから」

 返事代わりに勢いよくグラスを煽る。父がこういうことをよくするのを正也は熟知しているつもりだ。
 グラスを人差し指の爪でカチカチ弾き始めたら、それは酔っている証拠だということも知っていた。
 だからといって父は別段性格が豹変したりもしないので、ああまたかと思うだけなのだが。

「父さんが結婚しようとしてな、母さんのお父さん、あの白人の渋いじいさん、覚えてるよな」
「うん」二人揃って綺麗な相槌を打った。

 正也の母、明日葉は、アイルランド人の父親と日本人の母を持つハーフであり、目鼻立ちはくっきりとしていて肌が白く、髪も色鮮やかな金髪である。
 その息子である正也はクォーターなのだが、ちょっと髪に茶が混じる程度で、大して遺伝の色は濃くないようだった。

「で、あの人にな、娘さんを僕に下さいって言ったんだ。少し無理して買った一張羅をここぞとばかりに引っ張り出して、念には念をと念入りに予行練習までしてな。でも、殆ど門前払いだった」

 空になったグラスを再び満たしながら父は語る。

「母さんのいる前では繕ってたけど、いない所でちょっぴり泣いたね、やっぱり悔しかったから。そんなに幸せにしてやれないような奴に見えたかと思うと悔しくて、不甲斐なくて」

 正也も佳奈も、相槌を打つのも忘れて完全に聴き入っている。
 まして息子の正也に至っては、初めて聴く両親の話だからか、いつものようにクールを気取る余裕はなくなっていた。年相応の熱い眼差しが父には向けられていた。
 しかしながら、ほろ酔いが既に始まっていた父は、それに気付けずに終わってしまったのだけれど。

「それからというもの、何度も何度も通ったけれど、結果は変わらず終いだったんだ。それでも何カ月か過ぎた辺りで、少し向こうが折れてくれて、そうして段々と結婚に近付いていって、最終的には今みたいに結婚できましたとさ」
「えー、何それー、全然後悔じゃないじゃないっ」
「急かすなって、な、この話にはまだ続きがあるんだ」ぐびり、と一口啜る。そしてグラスを爪で弾いて、実に小気味良い音を立てた。
「で、二年前の夏にじいさん死んじまったろう、その時に遺書というか、手紙をもらったんだ。話に聞くとじいさんの住んでいた山奥にあるアイルランドでも田舎の小さい村では、死期が近付いたら、親しい人全員に、一筆したためるっていう風習があったそうなんだ。小さい村だからできることだって、そっから日本にまで出てきてしまったじいさんはよくボヤいていたみたいだけどな。そりゃあ知り合いも増えるだろうしさぞかし書くのが面倒だったんだろう。そういうことをまとめて母さんのお母さん、というかお前のおばあちゃんから聞いた」
 
 ゆっくり弧を描くみたいに震えた手つきで正也を指差しながら言う。

「それで、それで何が書いてあったのっ」
「んでだな、そこには、俺が結婚のお願いしに行った頃に、俺の親父が頭を下げに行ってくれたことが書いてあったんだ」
「え、どういうことなの?」

 正也の言いたいことはさっきから佳奈が代弁してくれるおかげで、何も言うことがない。にも関わらず、舌の根は不思議とカラカラに枯れていた。

「つまり、少し向こうが折れてくれたと思ったのは、親父の助けがあったからなんだ。そしてそれを親父は俺に言わないようにと向こうのじいさんに頼んでいたんだと。知ったら俺が傷付くと思ってなんだろうな。だけれどじいさんは、死ぬ間際にどうしても伝えておきたかった、墓まで持っていくには重過ぎるってね。ああそれと、いい父親を持ったな、そんな親の息子だからこそ、信用する気になったとか、そんなことがつらつら五枚くらいにわたって書いてあった。毛筆でしかもこれが達筆でなあ、本当に外人か疑ったもんだ」

 茶々を入れるような所ではない、それくらいはまだ子どもの二人にも十二分に分かり切っていた。

「でも、俺の親父は何も言わずに死んじまった。もう何年だ、……ああ、六年も前か。だからなあ、一言ありがとうと、それでも一人でやらせろ、親父が恰好つけんな、俺に恰好つけさせろって言ってやりたかったね。そしてそれに気付けずにいたこととか全部ひっくるめて、俺の一番の後悔なんだよ、佳奈、正也」

 言い終えて、この場に除夜の鐘も真っ青な静けさが立ち込めていることに父は気付いた。
 酔った意識でも分かるくらいにそれはもう、静寂そのもので、壁に立てかけてある時計の時を刻む音が無駄に鮮明に聞こえるほどだった。
 まだ人生経験の浅い二人には、こういった人の深い所に立ち会った時、どう振る舞えばよいのか分かってはいなかった。
 佳奈と正也の顔をじっくり交互に見比べそのことに思い至るや否や父は、

「いやいやいや、今のは即興で作った作り話だよ。大の大人が子ども相手に本気であんな話をする訳ないだろう、嘘だよ、嘘。はい、もうこの話はおわり、そろそろカウントダウンだから、ね」

 と、グラスを爪でカチカチ鳴らしながら言った。そうして数秒後ようやく事情が呑み込めたのか、

「もお、おじさん酷いー。ちゃんと罰ゲームしてよね! そうじゃなきゃお年玉弾んでよね!」

 と佳奈は凄い剣幕で迫る。ああなった佳奈は易々止められないからこそ、トランプに付き合ったというのに、と正也は呆れてしまう。
 けれども、正也は知っていた。父がグラスを爪で弾く時は本当に酔っているのだと。
 そうして、酔っている時の父は、嘘なんて吐けるほど余裕がある人間ではないということを。
 先程のはあくまで最後の最後で軌道を反らしたに過ぎず、途中まで語っていたことが真実なのだろうと皆目見当が付いていた。
 何よりも、父は嘘が好きではないらしいことを今まで肌身に感じていた。
 でなければ、隠し通して死んでいった祖父に、あんなことは言えないだろう。クールを装っていながらも、父のそういう所には尊敬の念のようなものを、正也は確かに持っていた。
 だから、父の苦し紛れに気付けたのかも知れない。 
 父と佳奈のやり取りを横目に遣りながら、ぼんやりと年越しに想いを馳せる。いつかは自分もお酒を飲んでみたい。
 お父さんがあんなにも嬉しそうに飲むのだからさぞかし美味しいんだろうな、なんて思いながら。
 ふと喉の渇きを思い出し正也は台所に飲み物を取りに行こうと決める。こたつから気合を入れて出てみるが、やはりぬくもりは一瞬にして冷めてしまう。
 自然と早足で母の方へと駆けて行った。

 

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